からっぽ

wordpress を始めてみたのはいいものの、何を書いたらいいのかがよくわからない今日このごろですw

でも、日常を過ごしていると、ふと、書きたいテーマみたいなのは浮かんできます。「あのとき読んだ本のあれを語りたいなー」とか。知識をひけらかしたかったりw

ただ、自分って本を少しは読んでいて(月2,3冊くらい?)、ちゃんと理解できているかとか、正確さが欠けている自覚ありなのです(ダメじゃん)。でも、文章書くときに引用するならなるべく正確に書きたいから、不正確ならどうしようとか思ってしまう。それが文章を書くハードルになっているのかなと。

それでも部分的には理解できているところもあったりもするからやっかい。理解というかもしかしたら、すっと体にはいってきて、少しずつ血肉になっているような知識ものもある。だから、多少の正確さを犠牲にしても、大意が伝わればいいのかなって思い、こうやって文字を打ち込んでいます。何より、頭に浮かんだことをすらすら書くのって、気持ちいい!って思っています。

先月読んだ本で、「血肉になっているような知識」ということを考えさせられた本が「知性は死なない」という本です。この本は、與那覇潤さんという歴史学者だった(うつ状態を経て学者からは退いている)方の本です。

この本の中で人文知というのは「言葉」「身体」の2つに分けられるということが書かれていました。一見、「言葉」だけが、知識のように考えてしまいがちです。しかし、人間、どうしても「頭でわかっていても、言葉をどれだけ尽くしても何か足りない」と感じるときってありますよね。そういうときって、言葉に還元できない、身体的なものという言わざるを得ない。

僕には弟がいるのですが、一時期、事あるごとに「この言葉ってどういう意味?」と聞かれた時期がありました。一日彼と一緒にいると、頻度できかれて、正直かなりうざかったのですが(w)、僕の答えは決まって「文脈次第だよ」と。例えば、同じ「あんたバカァ」という言葉でも、本気でバカにして言っている場合もあるし、じゃれ合いみたいな感じ茶化して言っていることもある。チョムスキーあたりの本をちょっとかじったことがあったので、日本語のような自然言語は文脈依存な言語で、プログラミング言語のような文脈自由な言語は違うよ、みたいな言い方で”納得”してもらおうとしました。

それでも、何度も聴いてきたので、僕の説明がよくないのか、弟が理解しようとしていないのかなぁとかもやもやしていました。今では、この問題に結論が出ていて、僕の説明が悪かったのだと思います。そもそも言語を使って”納得”させようとすることに無理があった。言葉の意味は、究極どこかで身体的に”感じる”ことしかできないものもある、というのが今の僕の考えです。

だから、僕も絶対的というか、正確な言葉というものにとらわれず、頭をからっぽにして、体から出てきた言葉でもって文章をかいていくときがあってもいいのかなって思っています。

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