「香水」と仮想現実

初めて、瑛人さんの「香水」を聴いたのは有吉弘行のサンデーナイトドリーマー内でのことでした。自分はよく芸人のやっているラジオを聴くんですが、以外に「これから世間で流行る曲」を初めて聴けるのってラジオだったりすることもあり、結構ちゃんと聴きます。

ラジオがめっちゃふざけているのに、曲で意外に感動しちゃったりして、良い曲だと Apple Music のライブラリに追加したりするんです。(チョコレートナイトで竹内まりやの September に初めて出会ったり、爆笑問題カーボーイでオリビアを聴きながらに出会えたりして、今では僕のヘビロテしている曲です。)

肝心の香水なんですが「ドルチェ&ガッバーナ」の部分が印象的だったのですが、なんだかよくわからない歌詞だなって思いました。

サンドリでかかったのが3,4月くらいだっと思うのですが、最近またツイッターで「ドルチェ&ガッバーナ」という文字列をよく見るような気がして、さらに彼女との会話の中で香水のことが話題に上がったりしたこともあり、気になったのでよく聴いてみました。

歌詞をもっとちゃんと追っかけながら、よくわからない部分があったら巻き戻したりして、丁寧に歌を追っかけようとしました。

結果、やっぱりよくわからなったですwこのうたの主人公の感情がよくわからない。共感するのが難しい歌だと思いました。

僕の見立てでは、歌詞の主人公自体も自分がどういう気持ちなのかよくわかっていない。「君」にLINEで呼び出されたらひょいひょい会いに行っちゃう「僕」。そのくせ「君」を求めていない。なのに、「可愛くなったね」と口先だけでいう僕。そしてクズになった「僕」を”でも見てよ”という自意識。

感情はあるのに適切な言葉が出てこないのではなく、よくわからないという感情がしっかりと言葉で表現されている。結局、何考えてんだ?とかどういう感情でうたっているの?っていうのがまるでわからないという構造。

瑛人さんの Hiphopは歌えないという曲の中でも

とりあえずいいやとその場しのぎで嘘ついて
調子の良いことばかりを言っては空回り
何が好きで何が嫌いかも分かってない
あやふやな言葉を借りて人をもてあました

https://www.lyrical-nonsense.com/lyrics/eito/hiphop-wa-utaenai/

「何が好きで嫌いかわからない」と歌っています。

これ、とても怖いんですが、自分だけでしょうかw人間から感情が失われつつあるというか。宮台真司さんがよくいう「感情の劣化」ってこういうこと??

でも、だからこそ巷で流行っているのは理解できるような気がしました。自分がどういう感情なのかわからない人。他人の目を気にしてい生きているひとが増えているから。

話が飛びます。。

世間ではホラー作品として知られている「リング」シリーズの3作目「ループ」がすごく好きです。ループはホラーではなく完全にSFになります。同じくSFではクリストファー・ノーランのインセプションも好きです。マトリックスも、もちろんすこ。

全部、仮想現実ものです。でも実はすべて共通のメッセージがあって「現実か仮想現実かどうかなんかより、愛(感情)は信じられるよね」っていうことです。

書きながら思い出しましたが「情報が氾濫しリアルかフェイクかの判断がつかなくなれば仮想現実なんて必要ない。現実そのものが仮想現実になる」ということを教えてくれたのはメタルギアソリッド2への伊藤計劃さんの評論でした。メタルギアソリッド2も、先程あげたSF群と似通ったテーマです。

何がリアルかフェイクかわからない今の世の中で、感情すらもわからくなってしまっているんだなと。この世の中のわからなさは、加速していくのだろうと思います。はっきりと思います。

ltoIog 1

何度も挫折する度に仰向けになり空を仰ぐ。

時が経てば再び起き上がる。

起き上がるまでの時は時の単位に関係ない。

何度も元の道へ戻る。

これはどう捉えればいい。

歩みは途絶えていない。

成長か。

いつだって戻れる。

驕りか。

何度目かの再起を感じる。

自由

また音楽が聴けなくなる日の宮台真司さんパートを読んで感じたこと。自由って2種類だと考えがち。

  • 〇〇からの自由(積極的自由、囚われない自由)
  • 〇〇への自由(積極的自由、意思して向かう自由)

この2つ。実際、アイアイザバーリンさんの自由論やエーリッヒフロムさんの自由からの闘争 ではこの2つの自由について語られているようです。

しかし、宮台さんはこの2つではなく、真の自由とは自由落下することだと説きます。これは、「この世ならぬすごい存在」に引きつけられ、自然と感染してしまうときこそ真の自由だというのです。宮台さんにとってこれは師匠の小室直樹さんと相対したときに起きたことのようです。他にも、お祭りとか、かつての渋谷の街に対してもそういう感染が起きたらしいです。

驚きました。コペ天でした(コペルニクス的展開を略した言葉。僕と高校生の友だちがだけが使っている言葉なので無視してくださいw)。自由落下って、加速度gかい!9.8m/s^2かい!

最近、人はどこまで自由なのかをよく考えます。アーティストって、無限にある可能性から自由に選んでいるんじゃなくて、降りかかってくる衝動から自由落下するように創っているんじゃないかって。

抑止力というラッパーも「自由へ」という歌で自由についてラップしています。

hook を引用します。

自由を目指す

俺たちは今夜 大海原

自由を目指す

ここには灯りはない

自由を目指す

未だ本当の仲間探している

自由を目指す

真実の灯りが見つかるまで

この詩の中で、目指している自由は、意思する自由だと思います。彼はどこにいるかもわからない仲間を孤独という絶望の中から探そうとします。さらに、絶望の中に微かに感じることのできる渦潮に引き寄せられているのがこの詩の語り手よような気がします。

引き寄せられた先に待っているのは希望なのでしょうか、それともさらなる深い闇だったのでしょうか。

〇〇

からっぽ

wordpress を始めてみたのはいいものの、何を書いたらいいのかがよくわからない今日このごろですw

でも、日常を過ごしていると、ふと、書きたいテーマみたいなのは浮かんできます。「あのとき読んだ本のあれを語りたいなー」とか。知識をひけらかしたかったりw

ただ、自分って本を少しは読んでいて(月2,3冊くらい?)、ちゃんと理解できているかとか、正確さが欠けている自覚ありなのです(ダメじゃん)。でも、文章書くときに引用するならなるべく正確に書きたいから、不正確ならどうしようとか思ってしまう。それが文章を書くハードルになっているのかなと。

それでも部分的には理解できているところもあったりもするからやっかい。理解というかもしかしたら、すっと体にはいってきて、少しずつ血肉になっているような知識ものもある。だから、多少の正確さを犠牲にしても、大意が伝わればいいのかなって思い、こうやって文字を打ち込んでいます。何より、頭に浮かんだことをすらすら書くのって、気持ちいい!って思っています。

先月読んだ本で、「血肉になっているような知識」ということを考えさせられた本が「知性は死なない」という本です。この本は、與那覇潤さんという歴史学者だった(うつ状態を経て学者からは退いている)方の本です。

この本の中で人文知というのは「言葉」「身体」の2つに分けられるということが書かれていました。一見、「言葉」だけが、知識のように考えてしまいがちです。しかし、人間、どうしても「頭でわかっていても、言葉をどれだけ尽くしても何か足りない」と感じるときってありますよね。そういうときって、言葉に還元できない、身体的なものという言わざるを得ない。

僕には弟がいるのですが、一時期、事あるごとに「この言葉ってどういう意味?」と聞かれた時期がありました。一日彼と一緒にいると、頻度できかれて、正直かなりうざかったのですが(w)、僕の答えは決まって「文脈次第だよ」と。例えば、同じ「あんたバカァ」という言葉でも、本気でバカにして言っている場合もあるし、じゃれ合いみたいな感じ茶化して言っていることもある。チョムスキーあたりの本をちょっとかじったことがあったので、日本語のような自然言語は文脈依存な言語で、プログラミング言語のような文脈自由な言語は違うよ、みたいな言い方で”納得”してもらおうとしました。

それでも、何度も聴いてきたので、僕の説明がよくないのか、弟が理解しようとしていないのかなぁとかもやもやしていました。今では、この問題に結論が出ていて、僕の説明が悪かったのだと思います。そもそも言語を使って”納得”させようとすることに無理があった。言葉の意味は、究極どこかで身体的に”感じる”ことしかできないものもある、というのが今の僕の考えです。

だから、僕も絶対的というか、正確な言葉というものにとらわれず、頭をからっぽにして、体から出てきた言葉でもって文章をかいていくときがあってもいいのかなって思っています。

思想のある音楽

先日、NWUの面々とSkypeで2時間くらいミーティングという名のおしゃべりしていました。もっぱら、コロナの話や音楽の話をしていました。中でも、好きな音楽・嫌いな音楽の話になって、ぶっちゃけ世の中の大半の音楽をDisっていたわけですが(w)、「僕らは思想のない音楽よりも思想のある音楽が好きだよね」ってことになりました。

その場の会話はそれで終わったのですが、一人で「そもそも思想ってなんだ?」って思い、何かヒントを探しに「音楽が聴けなくなる日」という本を読みました。

3章の宮台真司さんの文章で、でアートとエンターテインメントの違いについてこんなことが書かれていました。

  • エンターテインメントは気持ちよくさせる目的(社会の中にとどまる)
  • アートは観た後に修復不可能な”傷”をつける目的(社会の外に目が向けられ、観た後に変化が訪れる)
  • エンターテインメントは能動的に作られる (コントロール)
  • アートは受動的に作られる(パトス=降り掛かってくるもの、衝動、ヒュージョン)によって作られる

“アート”って言葉が正直苦手で、(なんとなく偉ぶっているきがする?w)から避けがちだったのですが、宮台さんの文章にはなるほどと、思いました。やっぱ好きな音楽って、自分のものの見方、生き方を変えてしまう。ある意味、暴力的といっていいのかもしれません。そして、尊敬している創作者の人はもしかしたら「創っている」という感覚ではなく、「創らされている」という感覚なのかな、と。

僕らのいう「思想のある音楽」がイコールで「アート」なのかなというとわからないところもあるんですが、重なる面は多そうです。もし、これから何か創ったり、創ったものに触れたりすることがあったら、「アートかエンターテインメントか」みたいな目線捉えてみてもおもしろいのかな、と思いました。

PS. Hisanori Ito くんの幼少期の心霊体験の話がすごく怖かったw

go to キャンペーン

go to キャンペーンが始まりますね。

経済≒人命なのか?

コロナ渦の中で、目を背けていたものが次々と明らかになっているし、向き合っていかなければと思います。

政治に注視しながら、一人一人が社会のために何ができるかを考えなければ。

先行きが見えない中で、人の弱さが悪い方向へ向かないように。

現代社会は、物事が繋がる早さが異常だと思います。

交通の利便さが感染症の拡大を後押しし、個人の言動が直ちに遠く離れた人へ影響を及ぼします。

すぐに動くのではなく、一度立ち止まることも重要なのではないでしょうか。